カルトのことば なぜ人は魅了され、狂信してしまうのか
https://gyazo.com/8f18d5645a4739f625949e55b0aeaa46 https://amzn.to/4mt62ad
ジョーンズタウンの離脱者はそのことを記憶しており、 私が話を聞いた人たちは口々に、この男の信じがたいほどの魅力、白人上流中産階級のボヘミアンから教会で活動する黒人の人々まで誰とでも親しくなれる才覚について、熱っぽく語った。 ジョーンズは、サンフランシスコで暮らす二十代の進歩主義者を前にすると社会主義者の口調になり、学者ぶったニーチェの引用で相手を魅了した。一方、年長のペンテコステ派信者といっしょのときは聖書の数節を引用して、 親しみやすい聖職者の持ち味を発揮した。 何人もの生存者が私に語ったところによると、 彼らはジョーンズとはじめて話をしたとき、 生まれたときから自分のことを知っているかのように感じた、自分と 「考え方が同じだ」 と思ったという。 こうして相手を強烈に承認し、のちにそれをコントロールに変えてしまう手法を、一部の社会科学者は 「愛情攻勢」 と呼んでいる。カルトのことば なぜ人は魅了され、狂信してしまうのか / アマンダ・モンテル・68ページ は、「つねに抜け目のないショーマンだったジョーンズは、 ブラックパワー運動に先行きが見えないことで動揺していた若いアフリカ系アメリカ人たちの革命への憧れを巧みに利用した (10)」と書いている。レスリーはもちろん、 自分が次代のアンジェラ・デイヴィスだと信じたかった。 自分ならコミュニティにそうした希望を与えられると、やる気を出したのも無理からぬことだ。 このように、ジョーンズが人々を惹きつけた要因は、容貌でも、 家族のような雰囲気でも、考え方でもなく、 言葉を操る力だった。 「その話し方は見事で、彼はすばらしい雄弁家だった」 と、 レスリーは言う。 「聞く人を感動させ、奮い立たせ......私はただただ心を奪われた(11)」カルトのことば なぜ人は魅了され、狂信してしまうのか / アマンダ・モンテル・70ページ バプティスト派牧師に特有の抑揚と情熱、アリストテレス派哲学者のような複雑な理屈、 片田舎で無駄話をしているような気どりのないウィット、 発狂した専制君主のような凶暴な情熱を併せもったジム・ジョーンズは、 言語のカメレオンと言えるだろう。 抜け目なく言葉を操るレトリック戦略を大量に隠しもち、それらを巧みに使い分けながら、 ありとあらゆる信者たちを魅了するとともに都合よく条件づけしていったのだ。これが、最もずる賢いカルト指導者のやり方だ。 いつも変わらない語彙だけを用いて統一されたひとつの教義を説明するのではなく、目の前にいる一人ひとりに合わせ、言葉をカスタマイズして使う。 カルトのことば なぜ人は魅了され、狂信してしまうのか / アマンダ・モンテル 71ページ 「革命的自殺」は、ジョーンズが感情に訴えて信者たちの同意を得るために、 意味を歪めて伝えた数多くの言葉のひとつだ。 実際、 集団自殺の直前に信者たちの前で行なった最後の演説で、この言葉を使っている。「革命的自殺」は元来、 ブラックパンサー党の党首ヒューイ・ニュートンが一九六〇年代後半に生み出した用語で、迫害者の手で命を落とすデモ参加者の行動を指すものだった。 つまり、もし街頭でデモを繰り広げて警官に抵抗すれば、警官によって撃ち殺されてしまうかもしれないが、 後ろの列にいた参加者が横断幕を拾い上げて前進を続けるだろう。 その人たちもまた撃ち殺されてしまうかもしれないが、 それが繰り返されながら運動は続いていき、いつかは自分のあとに続く誰かが横断幕を目的地まで送り届け、 自由を実現する日が来る。 ニュートンが意味したとおりの 「革命的自殺」 には人民寺院の信者のほとんどが賛同できたので、ジョーンズはそれを利用し、 必要に応じてさまざまな文脈でこの言葉を使いながら、ゆっくりその意味を歪めていった。あるときには、 革命的自殺は警官に捕まったり人質になったりしそうなときにとるべき適切な手段だと説明した。 またあるときには、 爆弾を身につけて敵の群衆の中に歩いていき、 自爆する行為を説明するのに用いた。 だが最も広く知られているのは、集団自殺の当日にジョーンズがこの言葉を使い、信者たちの死は隠れた支配者 (邪悪な秘密の政府指導者) に対する政治的声明であり、 何も言えずに強制されたものではないと思い込ませたことだ。
アップルホワイトは自分の信条に合わせて、 ヘヴンズ・ゲート独自の用語をすべて作り上げた。 どれもニッチな、いかにもSF風の用語の集まりだ。 邸宅での毎日の暮らしは厳しく統制されており、独特の言葉遣いは規律の維持に役立った。台所を「ニュートラ・ラボ」、洗濯室を 「ファイバー・ラボ」、食事を「ラボ実験」と呼び、集団全体を「クラスルーム(教室)」、個々の信者を「スチューデント (学生)」、ティーとドウのような教師を「オールド・メンバー」 や 「クリニシャン (臨床医)」、信者が外出して一般の社会で何かをしているときを 「船外での活動、 共同生活をする邸宅にいるときを 「船内」にいると表現した。「特別な話し方をすることで、 そのレトリックが作り出した場所、 まさに自分たちがいたいと思っていた世界にいると、想像することができたのだ」 と、 ヘヴンズ・ゲートの研究者でレイクフォレスト・カレッジの宗教学教授ベンジャミン・E・ツェラーは分析している。
カリスマ的人物が放った言葉と別の人物の自殺とのあいだに因果関係が成り立つことは、二〇一七年に議論を呼んだミシェル・カーター事件の判決で司法的に裏づけられた(1)。この裁判では、若い女性が携帯メールを通して高校時代のボーイフレンドを自殺に追い込んだ過失致死罪で有罪判決を受け、その行為は「自殺の強制」とみなされたのだ。 このミシェル・カーター事件は、 言葉だけで命を左右できるかどうかについての本格的な議論を国中に巻き起こしたのだった。
カルト的集団が及ぼす影響には段階的な相違があるが、 どの集団でもカルト語は次の三つの働きをする。 第一に、相手に自分は特別で理解されていると感じさせる。 ここで力を発揮するのは 「愛情攻勢」だ。 一人ひとりに注目して理解していると思わせるように集中的に言葉をかけ、 感動させるキャッチフレーズを使い、攻撃を受けると予言し、次のように呼びかける 「あなたは、 生きているだけで、神の王国に向かうよう運命づけられたエリート集団『アウェー・チーム』 の一員として選ばれている」。 こうした言葉を聞いたとき、即座にインチキくさい危険信号だと感じる人も、 ただ共感できないと判断する人もいる。 だが一部には、聞いたとたんに何かが 「ビビッときて、 自分が変身できたように思ってしまう人もいるのだ。 そのような人たちは一瞬にして、この集団こそが自分の求めていた答えだと信じ込み、 そこに戻ってこずにはいられなくなる。この状態は、 まさに突然生じる傾向があり、 その結果、 その団体に 「加入」 する。 これが回心と呼ばれる。
第二に、 また異なる一連の言語戦略が指導者に依存する感情を生み出し、 集団の外で暮らすことはもう不可能だと思わせる。 これは徐々に進んでいく操作で、条件づけと呼ばれるものだ。 ある刺激に対する一定の行動を、無意識のうちに学習するプロセスになる。 その結果、 外部の者には理解できないほど長いあいだ集団にとどまり続けてしまう (3) そして最後に、 言葉はそれまでの現実、 道徳規範、 自意識とまったく相容れないような行動をとるように説得する。 「目的のためには手段を選ばない」 精神が植えつけられて、最悪の場合には破壊的な結果を招く。 これは強制と呼ばれる。
カルト語で第一に重要な要素は何だろうか? それは、「私たちと他の人たち」 という二項対立を生み出すことだ。 全体主義の指導者は、言葉を用いて自分の信奉者とそれ以外のあいだに心理的な分裂を生み出さなければ、力を得ることも維持することも望めない。 「ファーザー・ディヴァインはつねに、 『私たち』と『彼ら』をはっきり区別するようにと言っていました。 『私たち』という内集団と、その外側にいる敵を区別するのです」と、ジョーンズタウンで長い年月を過ごした前出のローラ・ジョンストン・コールは説明した。目指すのは、信者に「自分たちにはすべての答えがわかっている、 自分たち以外の世界中の人々はみな愚かで、自分たちより劣っている」と感じさせることだ。 自分たちはほかの誰よりも優れていると思い込ませれば、その人たちは外部の者を遠ざけるだけでなく、 侮辱するようにもなる。 身体的な暴行をふるっても、ただ働きをさせても、言葉によって攻撃しても、すべて自分たちだけに許された 「特別待遇」 だと言い繕うことができる。
は 「含みのある言葉」と
だがジョーンズとアップルホワイトの婉曲表現は、死を積極的な願望の対象に作り替えてしまった。ジョーンズは死という恐ろしい現実を 「移行」 と言い換え、躁状態が激しいときには 「偉大なる移行」と呼んだ。そして死のテープでは、死ぬことは 「静かに次の段階に進む」ような些細なことだと話している。アップルホワイトは「死ぬ」 と 「自殺する」という単語をけっして用いず、 代わりに 「自分の乗り物を降りる」「卒業」「転換の完成」 「ネクスト・レベルの体を授かるために古い入れ物を乗り越える」と表現した。 これらの用語は条件づけのツールで、 信者たちが死という考えに親しみをもち、 死に対する根深い恐怖を捨てさせようという意図をもって用いられていた。
「含みのある言葉」 には対になっているツールがあって、 あらゆるカルトのリーダーに利用されている。 それは「思考を停止させる決まり文句」 と呼ばれるものだ。
つまり、「含みのある言葉」 が感情を強める合図になるのに対し、 意味の停止標識は思考をやめろという合図だ。簡単に言うと、この二つを併用することによって、 それを聞いた信者の身体が 「リーダーの言うことなら何でもしよう」 と叫ぶ一方で、 その脳は 「次に何が起きるかを考えてはいけない」とささやく。それは恐ろしいほど強制的な組み合わせになる。
「思考を停止させる決まり文句」 は 「カルト」の専売特許などではない。 皮肉なことに、誰かを「洗脳されている (9)」と表現すれば、 それが意味の停止標識の役割を果たすことさえある。 「あの人は洗脳されて「いる」 とか 「あなたはカルトの一員だ」 と言う人との対話は成り立たないだろう。 話は終わりだ。 ソーシャルメディアでそうした状態を目にすると、 議論が必ず行き詰まっていることからもそれがわかる。 これらの言い回しが登場したとたん、会話は止まり、意見の決定的な違いの背後にあるものを見つけ出す望みは潰えてしまう。
寛大で地域社会に根ざした人々がカルト的な暴力の犠牲になる事例できわめて重要な役割を果たすのが、「私たちと他の人たち」を区別するラベリング、 「含みのある言葉」、「思考を停止させる決まり文句」といったテクニックだ。 だがここで見過ごしてはならないのは、そうした方法は 「洗脳」 ではないという点で、少なくとも一般的に洗脳と考えられている方法に該当するものではない。
『一九八四年』は架空の話だが、オーウェルはニュースピークによって、 二十世紀の現実世界で広く信じられていた見解を諷刺していた。 それは 「抽象的な言葉」 が第一次世界大戦を引き起こす原因になったという説で、その説によれば、たとえば 「民主主義」 のような抽象的な言葉の乱用が世界の人々を洗脳する効果をもち、それだけで戦争が引き起こされたのだという。 そこで二度とそんな事態が生じないようにするために、二人の言語学者、C・K・オグデンとI・A・リチャーズが 『意味の意味』という本を書き、英語を単純化して具体的な表現だけにまとめなおす計画に着手した。 婉曲表現も誇張表現もなければ、誤解やマインドコントロールの余地もまったくない言語に変えようという考えだ。 彼らはそれを「ベーシック英語」と呼んだ。 だが、たいていの人はベーシック英語を耳にしたことなどないだろう。 この英語が広く定着することはなく、意図された目的を果たすこともできなかったからだ。 なぜなら、 言語は人々に信じたくないことを信じさせることはできず、ただ人がすでに受け入れようとしている考えを、信じてもよいと許可するにすぎない。言語が一文字どおりに使われようと、比喩的に使われようと、善意で使われようと、悪意で使われようと、政治的に公正であろうと、 公正でなかろうと─ある人間にとっての現実を作り変えることができるのは、その人がすでにそうした改変を喜んで受け入れようと思っているときだけなのだ。
しかし、彼女の研究では次のような実態が明らかになった。 統一教会と関わりをもったことのある一〇一六人を調査したところ、いわゆる洗脳が行なわれたとされるワークショップに参加するほど熱心だった人たちの九○パーセントは、自分の好みに合わないと判断してすぐに統一教会との関わりを絶っていた(1)。その人たちを回心させることはできなかったわけだ。 また、 残り一○パーセントは統一教会に加わったが、 その半数は二年以内に自らの意思で教会を離れていた。
では、残りの五パーセントの人たちはなぜ教会に残ったのだろうか? 知力の足りない人や精神的に不安定な人だけが長いあいだ 「カルト」 に忠実なのだろうと考える人が多いかもしれない。 ところが研究者たちはこれも誤りであることを実証している。バーカーは一連の研究で、 最も熱心な統一教会回心者と対象群とを比較してみた。 対象群として選ばれたのは、とても困難な人生経験をしてきたと思われる人たち(バーカーによれば、 「不幸な子ども時代を送った人や、かなり知力の低い人たち」) だ。 だが最終的に、対照群の人たちは統一教会にまったく加わらなかったか、 一週間か二週間後には脱退した。 一般的に、 カルト集団は勧誘の対象として「精神的問題」を抱えている人を探すと思われている。 そのような人たちのほうが惑わされやすいからだ。 だが、 実際にカルト集団で勧誘を担当した経験者の話では、理想的なターゲットは温厚でサービス精神があり、頭の切れる人だという。
統一教会の元信者スティーヴン・ハッサンは、新入会員の勧誘をしていた経験があり、カルトが目をつける人のタイプをある程度わかっている。 「私が統一教会でリーダーをしていたころ、勧誘する相手として選んでいたのは......しっかりしていて、 面倒見がよく、 やる気のある人だった (2)」というのが、一九八八年の著書『マインド・コントロールの恐怖』 にある彼の記述だ。 新しいメンバーを得るには多大な時間とお金がかかるから、すぐにやめてしまいそうな相手に無駄な労力をかけることはなかった(同様に、マルチ商法の幹部の話では、最も大きな利益をもたらす新入会員は一刻も早くお金を欲しがっている人ではなく、長期戦を戦えるだけのしっかりした意志をもった、 前向きな人だという。これについては第4部で詳しく説明する)。統一教会に関するアイリーン・バーカーの研究によれば、最も従順な会員は知的で元気のある人たちで、その親は活動家、教育者、 公務員である場合が多かった(私の両親のような用心深い科学者とは対照的なようだ)。その人たちは、たとえ自分自身の不利益になっても相手の良いところを見るように言われながら育っていた。
このように、搾取しようとして近づいてくる集団にだまされて加入してしまうのは、絶望している人や精神的な問題を抱えている人ではなく、過剰なまでに楽観主義的な人たちだ。 もちろん、 情緒不安定に陥ればカルト的な環境が魅力的に感じられることはあるだろう。
世界中のカルト的宗教が信者を回心させ、 条件づけ、 強制するために用いている、 「思考を停止させる決まり文句」「含みのある言葉」 「私たちと他の人たちを区別するラベルづけ」 をひとつ残らず並べたなら、この本より長いリストができあがるだろう。
ブックマーク・152ページ
アビーが探していた 「旅」 のように思われた。 シャンバラは世界中に何十という瞑想センターと修養所をもち、バーモント州の施設はそのなかでも最大規模のものだった。 アビーは都会から抜け出す日を待ちきれない思いでチケットを予約した。 シャンバラにはすぐ、 好きになれる点がたくさん見つかった。仲間意識や、寛容と容認の教えはすばらしかった。 樹木さえも信じられないほどすてきだと思えた。 「バーモントに到着したとき、こ...
「ガスライト」という言葉は、イギリスの戯曲 『ガス燈』 (一九三八年) に由来している。 夫の虐待によって、妻が 「自分は気が狂っている」 と思い込まされていく物語だ。 この戯曲で夫が用いた方法のひとつは、家のガス燈をわざと薄暗くし、 妻がその変化を指摘するたびに、 そんなことはない、 それは思い違いだと言い張るものだった。 一九六〇年代からは、 相手をだまして正当な根拠のある経験を自ら疑うように仕向けるという意味の「ガスライティング」という表現が、 日常会話で用いられるようになっている*。 「
*ただし、 とりわけソーシャルメディア上では、 「ガスライティング」という言葉がいい加減に使われているのを見かけることがあり (たとえば、 相手を操ろうとする意図がまったくない単純な誤解を誇張するためなどに用いられている)、 とても残念に思う。 この言葉の本来の意味は、特殊かつ非常に有効なものだからだ。
グロッソラリアとは、人が宗教的な恍惚状態になったときに、 意味不明な、 知らない外国語のように聞こえる言葉を発することをいう。
アール・タッパーという名の実業家が頑丈なポリエチレン製の食品保存容器を考案したのは、ちょうどそのころのことで、タッパーは容器にタッパーウェアという名前をつけた。 ただしこの商品が飛ぶように売れはじめたのは、直販の才覚をもつデトロイト出身のシングルマザー、ブラウニー・ワイズ(ワイズというのは本名だ)が登場してからになる。 ワイズはタッパーウェアを手に入れたとき、 郊外の母親たちはこの容器に必ず飛びつくだろう、 そしてそれだけでなく強力な売り手にもなりうると確信した。 その後、ワイズとタッパーは手を組むことになり、 家庭で開催する 「タッパーウェアパーティー」が誕生した。 ハッシュタグが生まれるずっと前に、ワイズは「女性のエンパワーメント」 まがいの言い回しを利用して女性を採用し、ディーラー、マネージャー、 ディストリビューターからなるネットワークを構築している。
最初の 「自己啓発」 本 (タイトルもそのまま 『自己啓発』) が一八五九年に出版されると、それも大成功を収めた。冒頭に「天は自ら助くる者を助く」 という言葉を掲げ、 貧困は個人個人の無責任な行為の結果だと主張する内容だ。 この 「困難を気力で乗り越える」という新しい態度は、 自分自身を信じてさえいれば、自分の運命は自分自身の力で切り開くことができ、 職業から身体的な健康まですべてを自分で管理できるという考えであり、現在アメリカンドリームと呼ばれているものを誕生させる一因となった。
この段階では、ニューソートは優れた会社人間になる方法を指南する書籍や講座に姿をあらわしている。『人を動かす』(デール・カーネギー著)、『思考は現実化する』(ナポレオン・ヒル著)、『積極的考え方の力』 (ノーマン・ヴィンセント・ピール著) はすべて一九三五年から一九五五年までのあいだに出版された書籍だ。
アムウェイはほかのどのMLMファミリーにも増して信じられないほど大きな力をもっており、その影響力は会社に直接関わっている人たちばかりか、 アメリカの政治体制全体にまで及ぶ。一九五九年に創立されたアムウェイはおよそ一○○か国で営業活動を行ない、 「インディペンデント・ビジネス・オーナー (IBO)」と呼ばれる四〇〇万人のディストリビューターのネットワークを通じて、年間九〇億ドルもの売り上げをあげている。 アムウェイはキリスト教系の企業で、 「アメリカ人は、かつて自分たちを偉大にしていた資質を失ってしまった」 という主張を基本とする。 失われた資質とは、何かを達成する個人の自由、 伝統的な「アメリカの家族中心の価値観」、そして神の祝福するアメリカへのゆるぎない献身だ*。 「私はこれからみなさんに、この国の間違っているところをお話ししようと思います」 と、 アムウェイにごく少数しかいないエグゼクティブダイアモンドのひとり、 デヴィッド・セヴァンは、一九九一年の総会で大声を上げた(アムウェイの最上位の肩書にはすべて、 希少な宝石などの宝物の名前がついている。 ルビー パール、エメラルド、ダイアモンド、 ダブルダイアモンド、 トリプルダイアモンド、クラウン、 クラウン・アンバサダーなど)。「この国は、人々が賛成するものをすべて許してきました......そしてキリスト教徒以外の人々を雇ってキリスト教を基盤とした社会を作ろうとし、 失敗に終わっています...... アムウェイのビジネスは、神の法の上に作り上げられているのです(3)」
社会学者たちは、より高い教育と科学的手法の訓練を受けることで、一般に人はだまされにくくなるとも言っている。また、好むと好まざるとにかかわらず、人は不機嫌なときにもだまされにくくなる。 研究者がいくつかの実験を行なった結果、 人は機嫌がいいとだまされやすく、疑いをもたなくなる一方、機嫌が悪いとだまされることに敏感になることがわかった (4)。 これは、私がこれまで聞いたなかで最も気難しいスーパーパワーにちがいない。
力いっぱいパンチを空中に繰り出しながら、 「私はとってもパワフル!」と思い切り叫ぶのは、心がこもりすぎて薄気味悪いと思われるかもしれない。 だが、 薄気味悪さという点ではヨガ・スタジオのほうにがぜん軍配が上がる。 驚くほど高価な揃いのアスレジャー 〔スポーツウェアと街着を組み合わせたファッション]に身を包んだ裕福な白人女性たちが大挙して集まるヨガスタジオには、サンスクリット語を使ったいい加減な語呂合わせの標語 「心の居場所がオームなり」 「ナマスレー」 〔ナマステ +かっこいい女性〕「私のチャクラはメッチャ整列」で飾り立てられ、参加者は互いに「トライブ (仲間)」と呼び合う。東洋やアメリカ先住民の精神修養に用いられていた言葉を、 エリート主義的な白人のために商品化する(11)一方で、その言葉を生み出した人々を締め出して消し去ってしまうという行為は、 「カルトっぽく」見えず、よくあることだと思われるかもしれない。 だが、 そのことがまさに問題なのだ。
頭のいい人は、カルト的なものを信じられないわけではない。 そうではなく、 頭のいい人は、 「頭がいいとは言えない理由で信じるにいたったことを擁護する」のが得意なだけだと、 シャーマーは言う。 ほとんどの人は、懐疑論者や科学者でさえ、 実証的な証拠につながる理由があって、 種々の信念をもつようになったわけではない。たとえば、 幸福とは金銭のことだ、 猫のほうが犬より優れている、台所の漉し器をきれいにする正しい方法がひとつだけある、といったことを信じる前に、 ゆっくり腰をおろして科学書を山ほど読み、賛否両論を比較検討する人はいない。 これについてシャーマーは次のように言っている。 「どちらかと言えば、遺伝的性質、 親の好み、 きょうだいの影響、周囲からの圧力、教育的経験、暮らしでの印象といった不確定要素のすべてが、 人格としての好みや感情的な傾向を形成し、 数多くの社会的および文化的影響と絡み合って、 その人なりの信念が選択されていく」
二〇一〇年代のはじめ、 Q アノンが登場するずっと前に、 急成長してきたこの政治的かつスピリチュアルな運動を説明するために「コンスピリチュアリティ(10)」という用語が生み出された(conspiritualityとは、陰謀を意味する conspiracyと、スピリチュアルであることを意味する spiritualityの混成語)。この運動は、次の二つの基本原則によって定義される。 「第一の原則は伝統的な陰謀論に沿ったもの、第二の原則はニューエイジ思想に根ざしたものだ。 すなわち、 (1) 秘密組織が極秘に政治および社会秩序を支配している、あるいは支配しようとしている。 (2) 人類は意識の『パラダイムシフト』 を経験している」 (この定義は、「現代宗教ジャーナル」誌に掲載された二〇一一年の論文による)。
大まかに説明すると、 Qアノンは二〇一七年に、 諜報機関の内部関係者とされる Q という人物を中心にインターネット上で発信された過激な陰謀論として登場した。 陰謀論の始まりは次のようなものになる。 Q と名
乗る匿名の人物が、 左翼の堕落した指導者たち─「ディープステート (闇の政府)」または「グローバル・エリート」と呼ばれる――が世界中の児童を性的虐待している 「証拠」 があると断言したのだ (Qによれば、ドナルド・トランプは 「不正に」 失脚させられる前に、その連中を阻止しようと辛抱強く闘っていたそうだ)。この権力を握った左翼のプレデターたちの邪悪な秘密結社を破滅させる唯一の方法は、「Q愛国者」または「パン屋」と呼ばれる Qの支持者たちの支援を得ることであり、彼らは匿名のリーダーがインターネットのあちこちに残した秘密の手がかり ( 「Qドロップ」 または 「パンくず」と呼ばれる)の意味を探しまわっている。 Q を信用するならば、 主流派の政府を拒絶し、報道機関を激しく軽蔑し、いたるところで彼らを疑う人々とぶつからざるを得ない。 それはすべて、進行している「パラダイムシフト」に必要なことだ。Qアノンは、 「今やあなたがニュース」や「ショーを楽しめ」 などのスローガンを生み出し、まもなくやってくるという 「覚醒」、つまり黙示録的終末を引き合いに出す。
誰もが Q アノン・レベルのインターネット・カルトにたどりつくわけではなく、 多くの人々はフェイスブックからタンブラーといったさまざまなプラットフォームのおかげで、 人生の大切さと人とのつながりを感じることができている。 私が思うには、セレブやコンスピリチュアリストがインターネットで自分自身のカルトのフォロワーを集めている一方で、私たち数十億人がジョー・ディスペンザ博士やドナルド・トランプのような有名人でさえ (彼らこそとりわけ)メディアそのものだ。
それは、ソーシャル
属している究極の疑似教会がある。
この本を書きはじめたとき、 仕事が終わるころにはカルト研究の影響を受け、 私はすっかり不愛想で人間嫌いになっているのではないかと少しだけ心配していた。 ところが終わってみれば、私たちの日常生活に入り込むカルト語のさまざまな言い回しに、これまでになく敏感になったとはいえ、 同時に思いやりが深まったと感じている。私自身がシャンバラのような組織に入ったり、 インスタグラムのコンスピリチュアリストに夢中になったりすることはなさそうだが、そうする可能性のある人たちを一概に批判しない姿勢が新たに身についた。そう思うようになったのは、人それぞれの常識外れの信念、経験、 献身は愚かさのあらわれではなく、私が考えていた以上に人間が神秘と共同作業を生理的に好むようにできている (そのせいで利益を得ることも、不利益を被ることもある)という事実のあらわれだと知ったからだ。